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生死は自分のために。誰かのために生きるというロマンも、誰かのために死ぬというロマンも違う。

徒然なるままに。

誰かのために生きるというロマンも、誰かのために死ぬというロマンも違う。
それは欺瞞でしかない。

人は自分のために生きてこそ人だ。
誰かのためにやる行為も、それと引き換えに「喜ばれたい」とか「やらないといけないからという義務感」といういわばギブアンドテイクを達成するためにやっていることがほとんどだろう。
誰かのためにやる行為が自分を生かす。

命こそ、自分のために使いたい。

「長生きして」も、空気的にそう言ったほうがいいから言うのか、残されたら寂しいから言のか、まだ利用価値があるから言うのか…。何れにしても相手のためではなく、自分のため。
それは悪いことではないし、むしろ全く普通のことだ。
ただし、自分のためと認識しているか。
相手のためだけを思って言っていると持ったら、相当まずい。

子供に勉強しろっていうのも、子供のためを思っても、もちろんあるだろうけど、将来困って欲しくない「親心という自分のため」でもあることを認識しないとね。

命は、誰かのためにでもなく、粗末に捨てるでもなく、自分のために使いたい。

大病をしてそれが一段と強くなった。
生きることに真剣でなければないほど、死が遠い存在になり、遠い存在だから怖くなる。
今を真剣に生きれば生きるほど、死は迫ってくるのが当たり前。
悲しさを知るから嬉しさを知り、悪を知るから善を知る。
今の世は、その両方の差がどんどん狭まっているのかもしれない。

逃げ出さない死もある。
無に還って人生という表現を完成させるという行為。
無への憧れ。
それを知っていれば、
「生きてればいいことだってあるわよ」なんて安直なことは言えないはず。
なぜなら、いいことを求めているのではないのだから。それは無意味だってことに気づくはず。
求めているのは、無と、完成なのだから。
「生きる」ことは素晴らしいが、それを自分で発見したのか。
感謝することが素晴らしい、マナーを守ることが素晴らしい、腹式呼吸が素晴らしい。
・・・それが自分の中から湧き上がったものではなく、世の中の価値観の受け売りではそのほうが人生不真面目でしょう。

こういうことをいうと、命を冒涜しているっていうような、意見が出てくるけど、そのういうほうがずっと命を粗末にしていると思うのはこのようなわけで・・・

あ、まだ私は死ぬ予定ありません。

最後に。
私の父が、余命半年、となった報告を受けたとき、
すごく寂しかった。
でも、治療頑張れとか、長生きして欲しいとかとても言えなかった。
親父ほど、人の何倍も内容濃く本気で生きた人間を他に見たことがなかったから…。
だから本人から「俺もう半年やで♪」
と聞かされたとき「…おお、そうか、大変やな。でもカッコよういってや。そしたら、残されたものも、自分の番がきた時覚悟できるしな」と、思わずか、つとめてか「にこやか」に伝えた。
そしたら親父は電話の向こうから
「がははは!嬉しいなあ!!さすが俺のことわかってるわ!!!」
と笑ってれた。




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